ルカの福音書11章14−26節

2020.07.23 Thursday 11:06
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    JUGEMテーマ:教会キリスト教

     

    「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住み着きます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」(24−26)

     

    『みことばの光』が言う、「不十分な悪霊追放」ということに目が留まりました。

     

    「不十分な悪霊追放」は、悪霊を追い出していただく側からすれば、「不十分な悔い改め」ということになるでしょうか。

    悪霊の働きの結果であったり、私たちの罪深い肉からでてくるものであったりする、様々な悪い思い・行い・ことばがあります。良心の鋭い人たちはそれらが自分にあることが許せず、何とかそういったものから離れようと必死にもがきます。が、離れられないことに思い悩み、やがて疲れ切ってしまいます。彼らはそういった一つひとつの罪悪から完全に離れることが「十分な悔い改め」だと思っているようです。

     

    先日も、心に病をもった若者から、ゲームの課金や性的な不満解消のための散財を止められないので、銀行に入っているすべてのお金を下ろして寄付してしまいたいがどうだろうか、という相談をもらいました。本当に苦しんでいる様子でした。でも、蓄えを無くしたところで、他の手段で得たお金をすべてそこにつぎ込むようなるでしょうし、仮にゲームや風俗が止んでも他のものにもっとひどく散在するようになるでしょう。というのは、問題の根本はそこにないからです。問題の根本は、その「偶像崇拝」自体にあります。自分を幸福にしてくれるものとして金や快楽などを、イエスの代わりに祭り上げていることに問題があるのです。その偶像は、「もっともっと」と私たちに要求し続け、それが得られず献げられない私たちを責め、絶望に追いやり、滅ぼします。どんなに心からあれやこれやを追い出そうとしても、またそれに成功したかに見えても、ご自身の恵みで私たちを満たすイエスの味方となって聖霊をいただかない限り、私たちから貪り尽くそうとする他のものを心に引き込み続け、「最後の状態は、初めよりも悪くなる」だけなのです。

     

    「十分な悔い改め」とは、何か具体的な悪を一つ、二つ捨てるようなこととは違います。神の子イエスを通して本当の神に立ち返ること、イエスを主と告白する聖霊の満たしを心にいただくことです。聖霊で満たされるとき、他のものは幸福の「絶対条件」ではなくなります。良い意味でそれらのものに対して「いい加減」になれるのです。求めるならそれを与えると、主は私たちに約束してくださっています(13)。

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