列王記第一18章25−46節

2020.05.30 Saturday 07:51
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    JUGEMテーマ:教会キリスト教

     

    「彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。」(28−29節)

     

    偶像崇拝の悲惨は、それが真の神に対する冒瀆で神の裁きをもたらすことになるというだけでなく、「空しい」ということにあります。拝んでも無駄だということにあります。真の神ではないので、私たちの祈りに応え、私たちの本当の必要を満たすことができないのです。「何の声もなく、答える者もなく、注目する者も」ないのに祈っているとしたら、滑稽なだけでなく悲惨です。

     

    それどころか、空しい偶像の背後にある悪魔は偶像を使い、私たちに多くの犠牲を要求します。どこまでも要求します。牛を献げても答えがないと、バアルの預言者たちは「剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた」とあります。「牛でもだめだ、自分の肉体を献げろ」と偶像は迫ったのです。そして最後には私たちのいのちも要求するのです。これは「原始的」な偶像礼拝だけに当てはまるものではなく、現代の拝金主義や快楽主義にも適用できる原則です。どこまで行っても偽物の神は満足せず、私たちからむしり取ります。何とも痛ましいことです。

     

    しかし、真の神は私たちに何も「要求」されません。いけにえの動物も自己犠牲も「要求」されません。ご自身が満ち満ちた完全無欠な方で、他の何ものをも必要としておられないからです。むしろ、私たちの必要のためにご自身を犠牲にしてくださる、恵み深く、あわれみ深い方です。その恵みとあわれみは、御子の十字架による身代わりの死に極まりました。神は祭壇に献げられるべき私たちの身代わりをご自身の側で用意して下さり、その上罪に対する裁きの火も下してくださったのです。私たちの罪を赦し、ご自身の子としてくださるためです。そのようにして、私たちの最大の必要を満たしてくださいました。それほどに恵み深い方ですから、御子に加えてすべてのものを下さらないはずがないのです。

     

    私たちに対する神の要求は、ただこの神に信頼することだけです。神の備えてくださった恵みを拒絶しなければいいのです。それも先ほどの意味での「要求」ではありません。ご自分のためではないのです。私たち救いのため、私たちが神の恵みで満たされるためなのです。

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