列王記第一18章1−24節

2020.05.29 Friday 09:21
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    JUGEMテーマ:教会キリスト教

     

    イスラエルに旱魃と飢饉をもたらしたアハブ王の偶像崇拝。しかし、アハブ王の矛先は自分自身に向かわず、かつてこの苦難を預言したエリヤに向かいます。

     

    宮廷長官オバデヤは「主を深く恐れ」る人でした(3,12)。かつては自分のいのちも顧みず、アハブの残酷な妻イゼベルによって殺されそうになっていた百人の主の預言者を匿い、養いました。エリヤは直接アハブに会いに行かず、まずオバデヤに会いに行きます。なぜでしょう。恐らくそれは、オバデヤの信仰者としての姿勢を問い正すためだったのではないでしょうか。彼はエリヤから、アハブにエリヤの存在を知らせるように言われたとき、恐れて躊躇しました。主がエリヤをその場から取り去られてしまったら、アハブはエリヤと会えずに激怒し、オバデヤは殺されてしまうからです。そこで私たちは思うのです。「はて、オバデヤが恐れているのは、主なのだろうか、それともアハブなのだろうか」と。オバデヤの気持ちは誰もが理解するところですが、彼の態度は21節にある「どっちつかず」の民たちの態度に通じるものなのです。

     

    それに対して、エリヤの態度は定まっています。オバデヤには「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます」(15)と約束しました。そして、「たった一人」「主の預言者として残っている」彼は、「四百五十人」の「バアルの預言者」と対峙するのです。

     

    エリヤの毅然とした態度は、この後のエリシャや多くの預言者たちから『みことばの光』が紹介する近代のルター、そして誰よりも十字架を前にした主イエス・キリストご自身に通じるものです。預言者たちはそれぞれの時代の「破れ口」に立って(エゼキエル22:30)、どっちつかずの神の民たちに、「あなたは誰を、何を、恐れ、愛しているのか」と問いかけました。それは、彼ら自身が主から聞いた問いかけでもあります。

     

    しかし、私たちの勇気には限界があります。「心は燃えていても肉体は弱い。」(マタイ26:41)主のおことばのとおりです。ルターも証言を初めは躊躇しました。主イエスでさえ十字架を前にして「この杯を取り去ってください」と願われました。しかし、ルターはもらった一晩の猶予の祈りの中で、主イエスはゲッセマネの祈りの中で、自分が全知全能の神のご計画の中にあり、神が共にいて下さることを確信し、強められたのです。

     

    大切なのは、無い勇気を振り絞ることよりも、むしろ自分の弱さを祈りの中で正直に告白し、その中で自分が神の御国(ご支配)の中にあることを確信することなのです。

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